一期一会の縁残し

 

 

東京は世田谷に引っ越してから、はやくも2ヶ月半がすぎて(まだ2ヶ月に安堵していいのやら)、毎年に感じる9月~11月の速さはもっとゆったりと時間の流れを感じてはいたのけども、これどうなんだろう?東京の町並みに景色観ないからなのか、今年が暖冬だぁ、と言われてるからなのか。とりあえず来年のこの時期までにならないと分からないですなぁ。まだ生まれたての都民ですからね(住民票は近シベ)

ともはなにあれ、筒井康隆の『残像に口紅を』を飲みの場で勢い余って(圧されたので圧し返すという、反射的にやり返す悪い癖)貸したのですが、「1ヶ月したら返すわ」と言われびびっています。まだ私が読めてないから(笑)貸すなよ!っと貸した直後に後悔というほどでもないけど、苦し紛れな自分を責めました。いやー、話盛り上がっちゃったんだもん。その方が大学の時に言語について学んでおられて(方言の元を辿っていくというのを、アイヌ語を対象に東北でレコーダー持って集める、という面白そーな事してたり)、こういう本があるんだよ、と見せたら「貸してくれるの?」と聞かれて、貸してしまいました。てかっ、俺が鞄に本持ってるって事はまだ読んでる途中って分かってたよね!!でも好奇心と配慮は紙一重に押さえきれなかっただけだよね!!!返された時に話振られても答えれない、どないしよ!!!もう知らないのに話合わせるのはやーめた、知らなくても話す術なんていくらんでもあるんや、という今年のサブ抱負は来年に持ち越されそうです。残り1週間どうするか、、、まぁ当分返されない、またはもう一生戻ってこないだろうな。連絡先知らないから。

ともあれ一期一会の縁残しを楽しんだまでのことですよ(会いたくないみたいな感じがにじみでてるのぉそういうことではないのだよとほほ)

 

そして、本を貸しちまった!の件の3時間前ほどには試写会があったなと先程思い出しまして、すらすら~と、もう1年前になるのですね感慨深くも早いな~とも感じる事はなくただ自分の中で何も言葉がでない期間だったなと頭の中を巡りぬけていました。泣くことも(私の中で泣くことは、理由がどうあれ感傷に浸ることなので、他人にそれを見せるのは本当に嫌んになる(笑)まぁしょうがなく甘えという形になるのですが、まぁだいたい皆そうよね)葬儀の最中はありましたが、なんで泣いてんだろうとずっと思っていました。なので、文字通り遺作になった作品を見る直前までずーっと「はやいわ」というツッコミしかしていなかったのですが、始まってからはそんなツッコミも忘れ、ただ動悸が早くなるばかり。なになに?過去の思い出フラッシュバック?あまりに感動的なファーストカットだった?などということはすこーしありましたが(ほーんとコーヒーにフレッシュくらいの割合)、ずーっと大学からやってきたことをさらにアップグレードさせてやろうというのを感じたからです。柘植さんに卒制でうちの組入ってほしい、そういやまともに話すの初めてだし飯食いにいこうとなり校舎近くのラーメン屋であれやこれや話していました。内容はあんまり覚えてない笑(私は基本的に話下手で聞き側に、あっちがほいほい色々と喋るので話しやすかった)。

ずっと頭に残っていることとしては2回生、3回生のゼミ作品でのスタイル(スタッフやキャストの形式的な事でなく意識的な話ですが)の話があります。まぁ、当時話してた通りに伝えると、『破壊』と『創造』というのをよく話していました。俺も無いけどやっぱ語彙力ねえな(笑)まぁ感覚として伝わるよね。そういう人でしたから。2回生でやったのが、脚本から撮影までが創造で、編集で破壊するということでした。この企みは当時合評での1回見ただけですが失敗におわっていると思います。3回生でやったのは破壊から創造ということでした。これは3人監督がいて各々が撮影して編集時にそれらを混ぜて1本に仕上げるというものでした。この内1つを監督していて、まあ企画自体もそうですが彼の撮影した作品も、大まかな筋はあるものの粗く(意図的に破壊された状態)、撮影時の現場で作っていく(創造)するといった構成とまでいかないけど、そういう流れでした。おもしろかったし、印象に残るのは彼が担当した場面が多かったですけどこれも失敗してると思います。(何目線だよおまえ、というツッコミが入りそうですが笑 友達目線以上でも以下でもないですよね、あー恥ずかし笑)

そういうことを感覚的に話してくれたわけですよね。ラーメン食べ終わって30分くらいかけて(笑)

で、卒制でやろうとしてるのが脚本段階でしっかり固めて創造(この脚本が良かったのか悪いのかは分からないけど)して現場で壊していくというこでした。いやぁ頭の固い私は絶対そんなこと思いつかないし、そういう捉え方なんだ~と当時思っていました。バカな私には細かい所話されるより、そんくらいの全体像で話された方が話の内容よりも食い付きがスゴかったんですね。エサが大きい方がいいんですね(違うな)

だから脚本もすご~~~く悩んでました。たぶん文字的記号より映像的記号の頭なんだろな。(脚本または文章書けない=映像的、ではなく伝えたい事はあるけど上手く伝えれない、ただどうやってこの感覚を伝えれるか、それのイメージは沸く、というわけです。それはコンセプトというよりももっと源泉的なとこだと思います。

だから物語はあるけどそれを直接的に語るのではなく、映像を使ってどう伝えるかというのにまたそれだけの物語を紡ぐのに四苦八苦してた感じです。余談-私が少し脚本で相談にのった時に場面設定を田舎道から防波堤という案をだして、それだ!っとなった時はお互いしたり顔でした。それでみんな苦しむのですが笑)。だし、編集の段階でも自分が付きっきりでやるというよりは、他のスタッフにやってもらいその自分との差異の感触を楽しんでいる感じでした。(撮りきってすぐに自分でやると客観的になれないから他の人にやってもらう方がスマートに進む、という感じではなかったと思います。多少あったとしても)

いまさら言わせてもらうと(言ってもしゃあないんだけどね)現場で壊していく作業はほんとにですよ、ほんとにしんどいよ!!笑 あほ! ただでさえ学生の撮影なんてハプニングの連続なのにねぇ。あの撮影期間中そうしたものは全部企画段階から考えてた思惑が呪いじみたものとなってず~っと張り付いてたんやないのかしら。本当に危険な目にあってたスタッフもいたし(笑)

 

完パケしたのを見ると失敗はしてるんだけど(あくまで私見ですよ)その分脚本にもそれに付随しそうなモノもなかったようなでかい何かは得られてたんじゃないかな~、と思います。お・そ・ら・く・ですけど『創造』→『破壊』という流れの企みは7:3くらいで失敗してんじゃないかなと思います(数値はあくまで個人的な観測です。計れるもんじゃないし誰にも分からん失敗か成功かも)。かといって成功の3は別にでかかった訳でもないと思います。北野武やアキカウリスマキが脚本を作らずシノプシスの段階で撮影していくというものに近いし(まぁ実際はだいぶん離れてるだろうけど)、エドワードヤンみたいに全て設計するようなタイプでもないし。柘植さん絶対理数系じゃないだろうし(笑)ようはこの7:3の「:」(この記号何て言うの笑)がすげぇ大きかったんじゃいかな~と。彼もそんな所に目はいってなかったと思います。でも感覚としてそこに期待はしてたんじゃないかな~。だから見てる最中は「なんなのこれ?」という事を観客は頭に過るだろうけど、見終わった後は「ええもん見たぁ~」「くっそつまんねえ」と人それぞれの感想はあるにしろ、「楽しかった」というのはあるんやなかろうか。(つまらん=楽しくないというのは、つまらなさを楽しめと言いたくなります。そんな言ったら世の中楽しくない事だらけよ、受け入れろとか理解しろとは言わないけど、そんなつまらない言葉でバッサリしないで)

まぁ口封じの映画よね(笑)余白はでかいし大きいけどそこがゼミ作品通して好きだったなあ~うん。

 

とまぁ、そんな事を「はやいわ」というツッコミと共に思い出していたわけです。

だから、最後に(なってしまったけれど)どういう事してんのかすごーく楽しみでした。だから始まって動悸高まってたんですね。

 

これまでは自分の経験や感じている事を元に脚本書いてたけど(企画書とか背景知ってれば分かるよね)、卒制までの作品はそこから離れようとして物語を書いているように思います。というかそれが柘植さんの醍醐味みたいにも感じます。そこから出発だぁ!みたいなね。

 

だから私が『ロストベイビーロスト』を見た後の感想としては、繁盛してない中華屋が改装してお洒落な洋食屋になってすげぇパスタとかプレートが美味しそうなメニューの中にひっそりとエビチリがあるような、そんな感覚になりました。(マジで。その後友人に電車の中でその経緯説明しまくってましたもん)

 

やっぱり今までと違うのは画の安定感でしたけどそこは省きます。それが中華屋の改装に繋がってますが。

今まで見てきた学生時代の作品で感じた突如訪れる怠惰感も音楽や編集の切れが出来ててあんまりなかった。(ちょっぴりそこがむなしく思えた)強いて言うなら、豹(?)や父からの電話、トンネルの赤ん坊奪い合いからの終盤にかけてが、クライマックスにギアが入っての突然の怠惰感に「うわ~最高だな~」と思って見てました。

 

ただ動悸が高まっていくうちに、心配(というか私の変な屈折した早計ですが、まぁたぶんそうなんだろうな、なんだかな)にもなっていきまして、それはちょーっぴり背景知ってるのもありますけど、どんどん自分に向かってない?というのがあって、というか赤裸々すぎないかいという事です。小説家でも音楽家でも自分の経験を扱ってる人は多くいます。私小説って言われてるしね。チャールズブコウスキーなんかもうめちゃめちゃ赤裸々ですよね。ただそれはあくまで題材(というか素材に近い)であって、物語よりも皮膚感みたいなものをヒリヒリと感じるのよね。たぶん、

卒制の作品もそういうものがあったんやないかしら。楽しもうぜぇ!っていうような。(卒業を懸けたレポートをお互い必死こいてやってるときに道でばったり会い、これまたラーメン屋で、やれブレッソンだのやれポールトーマスアンダーソンだの話している中で、「柘植さんて暗い映画は撮らないよね」「たしかに、そういう性分じゃねからかな」というのをふと思い出しました) 

で、話を戻すと改めてどストレートすぎねぇ!?と思うわけです。皮膚感すごい押し付けるやん!といった感じです。物語がそっちにいっちゃったんですよね。怠惰感のなかでも(これは物語に怠惰感を抱いた訳ではなないですよ。怠惰感の中から勢いよく広がる筋道みたいなものが学生時の作品にはありました)まぁ自分に向かったわけです。多少の広がりはありましたけども。物語は爆発しないわけです(撮影や演出なんかはいい爆風でした)。

でも壊すまでには至らずといった所です。むしろいい建築科に頼んで風通しも日当たりもよくしたんだなと。居心地はいいけど、前の中華屋の店の雰囲気もよかったんよ。油ぎっとぎとのソースに衣がはげかけのエビチリなんて笑いながらしか食べれないよね。ビールかなんかで流し込むくらいがちょうどよかったんよ。

 

 

と、なんだか前のがよかったみたいなニュアンスになってしまいました(笑)(すーぐちょっと感傷に浸ると傾き加減がわるくなる。ぶっ壊れたシーソーみたいですね、またまだですな~)

そーんなことはないんですよ、めちゃめちゃおもしろかったですよ!!ちゃんと楽しめたよー。相変わらずわけわからんエモーショナルぶつけてくるし(笑)泣きはしないけどね。あんたの映画で泣くのは柘植マナーではないからね。柘植さん映画見たらよく泣いてたけど(ジャンプでサンジがルフィに飯食わすとこでも泣いてたよね(笑)びっくりしたわ)

 

 

とまぁ、清掃バイトの帰りにふと思い立ってブログの二つ目の日記でまさかこんなこと書くとは(笑)自分でもなんしてんだろうってなる(笑)

 

1回だけ仕事の紹介(まーじで迷惑かけました)で飲んだなー、あとは煙草は今年から吸い始めたから一緒には吸ったことないな。そんくらいかな心残りとしては。

 

まぁなんでこういう事書いたかは自己満足ではないというのははっきりとちゃう、と言います(どう足掻いてもそう見えるのだけどね)。わけなんてのはとーっても小さい事で他人からしたらどうでもいいようなものです。ただ、他人からしたらどうでもいいようなことが他人から見れば自己満足だっと言われるならそれもちゃう、とお伝えします。むしろ自分に満足いかないから何かしてるんやないのかしら、それがどんな形であれ。形はなんでもいいけどどうでもよくはないんよ。